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執筆者の写真髙野

勉強と学びの違い

更新日:2018年3月14日

最近、保護者の方々とお話をしていてしばしば見受けられるのは、


「うちの子は遊んでばかりで勉強しなくて」


「今のうちから勉強をさせておかないと」


「勉強しないと将来が大変だ」


等々のご発言です。


主に教育熱心な親御さん(教師も)から発せられるご発言であるのですが、こうした親御さん(教師)ほど「学ぶ」という言葉を用いられません。


これはそもそも「勉強」と「学ぶ」ことの違いを理解していないか、または混同して使用されているのだと思われます。


「え、どちらもやることは同じでしょ」


というお言葉も帰ってきそうですが、質的に全く異なる概念なのです。


まず、「勉強」という言葉は、漢文読みをした場合に、「勉め強いる(つとめしいる)」と読みます。


これが意味する所は、「例えどんなに嫌なことであっても仕方なく行う」というものです。


これに対して、「学ぶ」という言葉は、諸説ありますが、一般的に真に似せるという意味から「真似ぶ(まねぶ)」が登場し、そこから「誠に学ぶ」という意味が発生し、「学ぶ(まなぶ)」に変化していったとされます。


そのため、「学ぶ」は学習者が能動的に「教えを受ける」、または「学問をする」意味で使用されます。


この言葉の意味の違いを明確するだけでおわかりかと思われますが、これらの言葉の定義を踏まえた場合に明白になるのは、


①言葉に存在する意味合いの違いとして、学習者の「自発性の有無」が関わるということ


②言葉を区別せず使用する親御さんのメンタリティが垣間見られるということ

です。



①についてよりお話します。


伸びるお子さんは、基本的にほぼ全員が学習に対する「自発性」を持ち合わせています。


自発性を持ち合わせているお子さんは、学習を「学び」として捉えており、決して「勉強」とは捉えていません。


よく「好きこそ物の上手なれ」とは言いますが、自発性を持ち合わせているタイプはこれがぴったり当てはまります。


逆に、お子さんが学習を「勉強」として捉えてしまうと、概ねそのお子さんは伸びません。

伸びたとしても、限度があることがしばしばです。


と申しますのは、勉強は所詮「嫌だけれど、自分の自発的な取り組みではなく、単に強制されて仕方なく行っている」ものだからです。


この意識を持っているお子さんは、親御さんに勉強するように言われる、学校でテストがある、受験がある等の強制力が働けばやります。


ところが、これらの強制力が外された途端に、糸の切れた凧(たこ)のようになってしまい、学習から遠ざかってしまうのです。


よく、


「うちの子は受験が終わったら勉強しなくなった」


「定期テストが終わったら勉強しなくなった」


等の話をお聞きしますが、当たり前なんですね。

何せ「勉強」しているのですから。


これとは対照的なのが自発的に「学んでいる」お子さんです。

学んでいるお子さんは学習に際限がありません。


こちらが押しても引いても一切動じること無く、勝手に学んでいきます。

ではなぜ勝手に学んでいくのでしょう。


これは単純な話で、その子にとって「学ぶ」ことが「遊ぶ」ことに近いからです。

大人でも遊ぶことは楽しいわけですから、それが子どもであれば尚更な楽しくないわけがありません。むしろ、大人以上に遊びは楽しいでしょう。


その遊びに学びがなってしまっているお子さんは、面白いぐらいにぐいぐい伸びるものなのです。


親や教師といった教育する側の視点に立てば、ここにお子さんを教育する側がはめ込めるかが勝負所なのです。


言葉を変えますと、この出来不出来が親御さんとして優秀な方、または優れた教師の判断基準でもあると考えて頂いても構いません。



ここからは、②について話していきます。


「勉強」と「学び」を区別せず使用されている親御さんのメンタリティが垣間見られるとはどういうことでしょうか。


それは、


Ⅰ.勉強と学びの質的違いに対する見識(または教養)不足


Ⅱ.我慢が大切であるという無駄な我慢主義


Ⅲ.親や教師の肥大化したエゴイズム


が挙げられます。


辛口な発言となりますが、一つの意見として述べているのでご容赦を。


Ⅰについては詳らかにするまでもありません。見識不足の場合には、是非親御さんご自身が自発的に「学んで」いだだければよろしいことです。知らなかった、これまで考えもしなかったことを新しく学ぶ姿勢は、お子さんにとって良いお手本となりましょう。


Ⅱについては、少々詳しく話す必要があるかと思います。


この「我慢を大切にする」という考え方は、先程述べた「勉強」と同根です。


つまり、「嫌なことであっても耐え忍んで頑張る」ことに価値を見出すということです。


この考え方を日本人は大切にしますが、そもそも我慢をしなくても良いようにするためにはどうすれば良いのか、我慢を最小限度に留めるためには何をしたら良いのか、という発想に向かうことが稀な気がします。


確かに世の中には多くの理不尽があり、大人になった際にはそれらの理不尽に立ち向かっていかなければならない以上、それ自体を全否定することはできないでしょう。


しかしながら、世の中の理不尽に対して忍耐強く立ち向かい、克服していくといったような経験は、ここで言う所の学習以外からも得ることは可能ですし、むしろ世の中の理不尽な出来事に出会った際に実地で学び、お子さんと共に克服していく方が有益です。


この際にも、そうした経験を勉強(=嫌なことを仕方なく耐え忍んで頑張ること)として捉えるのか、それとも学び(=自発的に誠に学ぶこと)として捉えるのかによって、同じ経験であってもお子さんにとって意味が変わってきます。


学習を勉強として扱うということは、お子さん達に親の側、または教師の側が学習を「嫌なことであり、かつ耐え忍んで頑張るもの」であると示しているようなものです。

そんな嫌で耐え忍ばなければならないことに自主的に取り組む子どもは、早々滅多に出会えるものではありません。


大半の子どもが、できればやりたくない、避けたい、逃げたいと思うのは当たり前なんですね。


一旦、学習に対して子どもにマイナスな印象を植え付けてしまうと、雀百まで踊り忘れずのように、それがどこかで印象が変化する大きなきっかけが得られない限り、大人になっても続いていきます。


これは子どもにとって何より不幸なことの一つです。


実際、親御さんや教師の中にも多いのですが、自分達も我慢してきたから、子どもにも我慢させないとという思考があります。


このメンタリティははっきり申し上げて、子どもにとって迷惑千万でしかないんですね。

親や教師として我慢せざるを得ないものがあって経験してきたものであって、子どもにとって果たしてそれが必要であるかどうかは、また別なわけです(必要なものは決して否定しません)。


ましてや、


「私達はこんな嫌な勉強もしてきた」


「仕事は本当はしたくない嫌なことだけど、家族のために仕方なく頑張って取り組んでいるんだ」


といったような発言は、お子さんにとり、学習や仕事、ひいては社会に対してどのような印象を持たせることでしょう。


少なくとも、自ら率先して取り組んでいきたい、出ていきたい対象でないことは十分に想起しうることです。


このような不幸な事態を、我慢を無駄に肯定する我慢主義は世の中に蔓延させている気がします。



Ⅲについては、Ⅱの最後の方と重なってくる部分があります。


親や教師の肥大化したエゴイズムとは、一見するとお子さんのためを思っているように見えても、実際はそうではなく、単に親や教師の利益を考えているに過ぎないことを指します。

例えば、よくあるケースです。


Ⅰ.「私は自分の力が及ばなくて良い学校に入ることは出来なかったんですけど、子どもには入ってもらいたくて」


Ⅱ.「子どもの将来のためを思ったら、今から良い学校に入らせていた方が得ですから」


Ⅲ.「私は勉強しなかったから苦労した分、子どもには勉強させないと」


言い方はどうあれ、これらは決してお子さんのことを最優先に考えて出している発言ではないんですね。


というのも、お子さんのことを最優先にしたのではなくて、親(教師)である自分達の利益を優先しているのが明らかだからです。


Ⅰで言えば、自分の力が及ばなかったのは自分の責任であって、それにまだ悔いが残るなら自分で叶えれば良いだけの話です。


それを子どもに入ってもらおうとするのは、単に自分の叶わなかった願望を自分の子を使って代わりに叶えてもらおうとする代償行為にしか過ぎません。


Ⅱでは、子どもの将来は子どもが描くものであるという前提がしばしば忘れられがちです。

さらに、良い学校でしばしば見受けられるのも、「良い学校」の意味合いが、自分の子どもがそこに通うことによって親のステータスとなる良い学校となっていることです。


Ⅲも、結局、自分のした苦労を子どもがしないことによって代償を得ているに等しいと言えます。


もちろん、勉強しなかった苦労を子にさせまいとする姿勢は素晴らしいでしょう。


しかしながら、勉強しなかった親自身を棚に上げた(その後、親自身が子の手本となる学習に取り組まない)まま、子どもに勉強という嫌で我慢をしなければならないことを押し付けることがあります。


これらは典型的なケースとして挙げているに過ぎないものでありますが、どれも「勉強」という言葉の使用から垣間見られる、親のエゴイズムが出ているものです。


興味深いのは、子どもが「勉強する」ではなく、「学ぶ」ことを意識している親御さんはこれら一種の自己願望の投影が見受けられないことです(正確には、決してゼロではありません)。


その理由は、やはり子どもが「学ぶ」という行為の中に存在する自発性を大切にしているからでしょう。そして、子どもの自発性を尊重する、それを適切に育むためには、どうしても


子どもを中心として考えざるを得ないからでしょう。



ここまで書いてきたように、勉強と学習は質的に異なる概念です。


お子さんに学習に取り組んでもらいたいと思われているエゴイストな(笑)親御さんは、是非ご自身が学ばれる姿勢を通じて、時にはお子さんと共に学ばれることによって、お子さんの「学び」を奨励してあげて下さって欲しいと思います。


なかなかそうしたことは難しいとお考えであれば、それはプロの出番ですから、プロに任せるのが一番です。

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